翻訳屋に34

<横田基地へのはずだったのが、>
翻訳者になれないかもしれないと不安だったのが、一年を過ぎたころには、多少の奢りもあって、ロボットのようなメカトロ関係ならオレに任せろという気になっていた。技術的な基礎知識もなく、調べる習慣もない翻訳者といっしょにされたら迷惑だとすら思っていた。たかだか一年足らずの経験で、恐る恐る翻訳会社のドアをたたいたときとはまったく違う自分がいた。

さまざまな業界のいろいろな製造設備の説明書を翻訳しながら、知らないことが出てくるたびに本や資料を探して知識を補っていった。周到な準備をしてから事にあたる人もいるのだろうが、社会にでたとたん、準備ができてからということなど、あったためしがない。まして進歩し続ける技術に関係する書類の翻訳、準備のしようのない領域もあるし、いくら準備をしたところで必ず至らないところがでてくる。いつもバタバタ、仕事に勉強させられた。

そんなことを三年もしていれば、紙の上の理解にすぎないにしても、翻訳で碌を食むまでなら、このままいけばいいという気持ちになってくる。翻訳者にはなれる、それも仕事のできる翻訳者にという気持ちも上での余裕がでてきたとたん、翻訳という仕事の宿痾の、解決しようのない問題が大きな影のように広がってきた。

いくら翻訳に慣れても、日本語の原文が何を言っているのかを理解せずに字面で翻訳する器用さはない。ぐちゃぐちゃで何を言っているのか分からない日本語の原稿を読んで、原稿に敬意を払いながらも、書かれていなければならないことを編集して英語のマニュアルを書き上げるかたちでしか翻訳できなかった。日本語のマニュアルの原型をそのまま引きずっていたら、製品の一部である英文マニュアルとして用をなさない。

そこまでしなければ、英文マニュアルにならないが、それをそれなりに評価してくれるクライアントばかりではない。翻訳した英文マニュアルの単語と文章を日本語の原稿の一字一句と付き合わせてしか翻訳をチェックできないクライアントも多い。そんなクライアントから、「訳抜けがある」、「ここがおかしい」、「こうすべきだ」というクレームがきたことがある。「そんな変更をしたら、訳の分からないマニュアルになっちゃいますよ」と営業経由でクライアントに伝えてもらうが、翻訳者にできることはそこまででしかない。英文マニュアルの最終責任はクライアントにあって、翻訳者にはない。

ふつうの会社員として働いている限り、何を目指そうと考えて勉強したところで、会社の都合で出てくる辞令ひとつで何をするのかどころか、住むところまで決められてしまう。(日立精機では、日本に置いておくと煩いからとニューヨークにまで飛ばされた。米国駐在のバタバタについては、拙著『はみ出し駐在記』をごらん頂ければと思う。)人生や生活の基本的なことですら会社の都合が優先で、私生活は二の次が当たり前の時代でもなし、実力だけで自立できる翻訳者になろうとした。

恐る恐るその世界にはいってみれば、技術翻訳とはどうしようもない日本語との格闘でしかなかった。翻訳者として碌を食むのであれば、一生訳の分からない日本語と付き合うことになる。どんな仕事をしても妥協はつきものだが、だらしのない日本語の翻訳より、自分の知識と考えで自分の意見や思いを自分の言葉で言うのが人としてのありようだろう。このまま翻訳者として一生をおくるのか?まだ三十半ば、いくらなんでも寂しすぎる。何とかしなければと考えだした。

何においても真正面から生真面目に対峙してしか生きられないリディアさんが専属のプルーフリーダーのようになっていた。リディアさん、真面目すぎて適当な翻訳にちょっと手をいれて終われない。他の翻訳者がリディアさんのプルーフリーディングを拒否するようになっていた。いい翻訳を客にと思うより、いい加減な翻訳をリディアさんに指摘されるのを嫌がった。
リディアさんの目で意味の通らない英文があれば、意味の通る英文になるまで言い合いながらの作業になる。英文マニュアルとして通用するマニュアルにしか翻訳できない不器用な翻訳者に、徹底してネイティブの英語に書き直すプルーフリーダーのコンビだった。しばし、「ばか、このあいだ教えただろう」とまで言われて、英語の基礎を叩き込まれた。

仕事にしてもなんにしても厳しい人で、ことあるたびに「翻訳者なんてのはSocial dropoutだ」、「こんな翻訳の仕事をしていても将来がないから、早々に見切りをつけてエンジニアリングの仕事に戻ったほうがいい」と言われていた。そうは言われても、いまさら工作機械でもあるまいし、仕事探しも面倒だしと何もしなかった。一向に転職しようとしないのを見かねてか、米軍向けの新聞の仕事で出入りしていた横田基地の翻訳・通訳の仕事を探してきてくれた。

八十五年の年末も冬休みの宿題のような仕事が待っていた。正月気分どころか、年を越しても続く仕事だったから、何が新年だという感じだった。そこにクリスマスまでに片付けなければというアメリカの制御機器屋のごちゃごちゃ仕事のリピートが入ってきたらたまらない。
盆も正月も、ゴールデンウィークもなにもない翻訳屋家業の宿命、正月早々バタバタして、今年も走り続ける一年かと思っていたところに、リディアさんが唐突に言ってきた。
「九月に横田基地で翻訳・通訳のポジションが一つ空くけど、どう?」
米軍の書類ならMIL規格に準拠しているはずだから、しっかりした英語を勉強できる。給料がどうであれ転職したほうがいい。リディアさんに頼んだ。
「その話、是非紹介して欲しい」
「あなたなら間違いなく採用されるだろうから、九月まで待って」
といわれて、次の転職先というのか勉強先のめどがついた。
横田基地にいっても翻訳と通訳の仕事でしかないが、求められる翻訳の質という点では天地の差だろうし、それを生み出す環境も整っているだろうと期待していた。八十六年の年明け早々のうれしい話。五月には三十五歳に、そして九月には横田基地へ。またチャレンジさせてもらえる。勉強させてもらえると期待していた。
米軍の仕事で後ろめたさはあるが、一生ってことでもなし、これも勉強と割り切った。

もうそろそろ桜かというある日、アメリカの制御機器屋から電話がかかってきた。
「できるだけ早く事務所に来てもらえないでしょうか」
クライアントからの電話はなんど受けても慣れない。そんなことありっこないという自信はあっても、もしかしたら、誤訳や訳抜けかと心配が頭をよぎる。
それにしても電話の口調がやさしいというのか、お願いしますと感じに聞こえる。いつもクールというのか、キャリアウーマンでございますという上から目線の癇に障る話し方なのに、年があけたら人が変わった?まさかマンガの世界でもあるまいし、気味が悪い。追加分を翻訳会社抜きで直接なんて話じゃないだろうなと思いながらも、クレームが心配で、
「この間の翻訳、何か問題ありましたか」
「いえ、問題なんて何もないです。時間がないところ本当に助かりました」
クレームの電話でなかったことにほっとして、あとはなんでもかまいやしないと落ち着いた。
「あのー、仕事の話でしたら、営業にお願いしたいんですけど」
「いえ、そういうお話ではないんです。年明けに池袋から京橋に引っ越して、弊社の体制も新しくなって、担当部長も山本から荒川に代わりました」

引越しも組織変更も担当部長の交代も、だからどうしたって話で、こっちにゃ関係ない。何が「お話」だ、早く用件に入れと思いながらも、相手は客。
「京橋ですか、池袋もよかったですけど、京橋なら東京駅も近いし、便利になりましたね」
といらぬ世辞までいった。
「新任の荒川が、是非とも、できるだけ早急に藤澤さんにお会いして、今後のことを相談さしあげたいと……」
何が相談だ。仕事の話を直接頼まれても困る。
「はい、でも仕事の話は営業にお願いしたいんですが」
「いえ、翻訳のお願いではなく、今後のことで……」
何を言っているかよくわからない。ただ会いたいってんなら、そっちがでてくるのがスジで、こっちから出向くことじゃないじゃないか。出かければ半日分の仕事ができなくなる請負家業の翻訳屋の立場などなにも分かっちゃいない。
何を言っても、できるだけ早急にと言われて出かけていった。

行ってみれば話は簡単で、翻訳屋を辞めて、できるだけ早くこっちへ来れないかということだった。九月には横田基地と思っていたが、それどころではなくなった。二回目の人生の節目は向こうから勝手にやってきた。
後になって振り返ってみれば、これがビジネス傭兵に足を踏み外していく始まりだった。

『翻訳屋へ』はここまで。
続きは日をあらためて。
2018/12/16