『英語嫌いが、三十すぎて英語のプロをめざした <ビジネス傭兵の基礎づくり>』

一月六日、アマゾンのKindle版として上梓しました。
『はみ出し駐在記』につづく五年ほど、無我夢中で職業人としての基礎づくりにあけくれた日々の話です。

「はじめに」をそのまま転機します。
受験勉強すらしたことのない英語嫌いが機械屋になりそこなって、三十すぎてから英語のプロを目指した。拙著『はみ出し駐在記』からつづく一九八一年から八六年四月までの背水の陣の五年間。なんとかしなきゃの毎日だった。後になって思えば、それがビジネス傭兵への基礎をつくっていた。

一九七二年に東京高専を卒業して、工作機械の技術屋になりたくて大手工作機械メーカに就職した。戦前からの名門企業は、六十年代末の学園紛争の洗礼を受けたものがいられるところではなかった。三年目には丸ビルにあった子会社に左遷されて、日本の置いておくと煩いからと、ついにはニューヨークに国外追放になった。気がつけば、技術屋どころか海外からのクレーム処理の便利屋になっていた。障害対策で工場中走り回っていたが、活動家仲間の身分保全の裁判闘争にかかわって、早々に見切りをつけるしかなくなった。

技術革新に遅れをとって朽ちた名門とまで言われていた会社に渡す引導が半分、技術屋になりそこなった自分に渡す引導が半分だった。いるところでもなければ、いたいと思う会社でもなくなっていた。ただ転職といっても何の能力があるわけでもない。たかが高専出の技術屋のなりそこない、人材紹介会社に登録してはみたが、将来をかける勤め先が見つからない。翻訳会社の営業マンとの偶然の出会いから、外注先だった翻訳会社に雇ってもらった。社長の「明日からでもいいですよ」が、まさか「明日は分からない」という意味などとは思いもよらなかった。

翻訳者にと思ってもなれないかもしれない、というより世間の常識で考えたら、無謀としか思えないチャレンジだった。やってもダメだろうと諦めるわけにもいかない。できる限りのことをしてダメならダメでしょうがない。やるだけやってみるしかないとバタバタが始まった。

パソコンもなければインターネットなど想像もできない時代の話、何をするにも手作りというのか一つひとつ、一歩一歩の三年半。失ったものも大きかったが、翻訳を通して培った知識と能力が、まさかビジネス傭兵の基礎になるなどとは思ってもみなかった。目先のことに右往左往しながら、考えたこともない傭兵家業という将来に向かって歩いていた。

<主な表題>
「走りまわる便利屋」
「辞表をだしたら」
「しがらみのない競争社会」
「いい加減が丁度いい」
「素人の勉強法」
「外国人から日本を聞く」
「英語で勉強する」
「英語から日本語を学ぶ」
「トライアルと禁じ手」
「転機は向こうからやってきた」
2019/1/20