英語−人としてのありよう(改題)

いまさら何をの話でしかないのだが、ろくに努力もせずに(他)人が個人の長年に渡る努力で培ってきた能力を臆面もなく利用し続ける輩に閉口してきた。機械屋崩れの制御屋、英語は決して本職でも専門でもない、必要に迫られてせざるを得ないからしてきに過ぎない。「英語が好きなんでしょう」と世辞もあってか言ってくる人がいる。何を見ての話かとムッとする。好き?よしてくれ。そんなものただのツールに過ぎない。好きになれないというより大が付くほど嫌いだ。英語などしないで済んだら、他のもっと意味あることができたのではないかと忸怩たる思いすらある。
困った人を助けるのを仕事としてきた。それが習い性になってしまったのか、仕事であろうとなかろうと、助けを求められればいつでも喜んででてゆく。しかし、それも度を過ぎれば、ロジックではなく人情が頭をもたげる。
帰国子女であることをあからさまに自慢して格好をつけるのはいいが、仕事では日本語でも英語でもあまりに知識がなさ過ぎる。日常生活を通して体で拾った英語、へらへらするには事足りるが、ビジネスの場では使い物にならない。大学で英語をご専門としてきたにもかかわらず、あるいはそうだからなのだろうが、仕事の場で使える英語-日本語と英語の両方での知識を習得する努力をしないできて、そのツケを人の貴重な時間で培った能力で補うのはほどほどにして頂けないかないかというささやかな苦言、これも人情ってもんだろう。

随分前から「ビジネスマンとして英語は必要とお考えですか?」あるいは、「英語はできた方がいいとお考えですか?」という漠然としたアンケート調査に多くの人が、「必要」、「できた方がいい」と回答している。海外旅行も身近なものとなって久しいし、昨今のグローバリゼーションの波もあり、昔とはくらべものにならないほど英語でビジネスを遂行しうる人口が増えている。にもかかわらず、また、世界市場におけるポジション、技術レベル、海外直接投資額などほとんど全ての面でアジア諸国と比較にならない立場にありながら、アジア諸国のビジネスマンと比較すると日本人ビジネスマンの英語は決して誉められたレベルではないと言われて久しい。
原因ははっきりしている。東南アジア諸国は工業技術面で自給自足から程遠く、そこそこの企業でそれなりの立場にいると、あるはいようと欲するなら、世界の共通語である英語で情報を処理し、英語でビジネスを進める能力を要求される。一方、日本はどうかと言えば、ほとんど自給自足状態にあるため、一部の人を除けば、日本語だけでビジネスを遂行できる環境にいる。一言で言ってしまえば切羽詰った必要性の違いででしかない。
しかし、程度の差はあっても、業務遂行にしばしば英語での意思疎通が必要なビジネスマンは確実に増えている。にもかかわらず、「英語は得意ではないので、。。。」などという言い訳が平気で通っているケースに遭遇する。英語を標準語としている国で育った、あるいは業務で何年にもおよぶ駐在生活でもしなければ、英語での意思疎通は個人の時間をかけた努力で勉強して得た技能(流行の言葉で言えばスキルか?)ででしかない。この視点から見れば、英語は得意ではないのでという言い訳は、努力をしてきませんでしたということの表明ともとれる。「できない」のではなく、できるようになるために必要な努力をしてこなかっただけでしかない。
なぜなら、英語は、1)植民地政策を通して、英語は母国語としない人たちに使い易いように平易な言語に進化している。2)学校教育で最低限数年間は基礎教育を受けている。3)学習教材はそれこそどれを手にとるべきか判断に迷うほど様々なものが、それも安価にあふれている。一日十五分から三十分、数年間努力すれば、間違いなく意思疎通をできる程度までのレベルに達することができる。
目的は流暢に英語を話す、気の利いた表現を身につけることではない。流暢に話せるから相手が聞いてくれるわけではない。話している内容に意味がある、聞かねばならない、聞く価値があるから相手が傾聴してくれる。傾聴してくれる相手に最低限間違いのなく意思疎通を図るレベルまであれば、ほとんどのビジネスマンは個人の時間と努力で到達できるはずだ。
努力もせずに、努力して意思疎通の技能を習得した人に、しばしば部下に頼り切るのは上司として、「私は怠け者だが、上司なんだからお前が面倒見ろ」と強要しているのと変らない。たどたどしい英語であっても、自らの考え、主張を自らの論理展開で伝えようとする上司を部下は尊敬することはあっても、軽視することはない。逆の可能性は十分にある。極端に言えば一日十五分の努力。時間がないといういい訳は、「私は怠け者です。」と同義語だ。
怠け者に限って豊な私生活を送っている。趣味や娯楽も立派な社会生活。否定はしない。人生を豊なものにする大事なものだろう。でも、その豊な私生活をおくるために、私生活を犠牲にしてまで他人が身につけた能力を使いまわすってのはないだろう。使いまわされて疲れたものの正直な気持ちを言わせて頂ければ、もういい加減にしてくれ、あんたの豊な私生活のためにおいらの能力を使いまわすのはほどほどにしてくれないか。それがたとえ仕事であっても人情ってもんだろう。
蛇足になりかねないが念のため。ここで“英語”と言っているのが実は“英語”そのものではなく、日本語と英語の両方で何をどこまで理解しているかという知識とその知識をベースにした意思疎通の能力であることにご注意を。
2015/2/13
p.s.
『英語』を編集、加筆の上改題